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新説が面白い!「国宝臼杵石仏」は平安時代のテーマパーク!?

2021-05-15

平安末期から鎌倉時代にかけて彫られた大分県臼杵市の「国宝・特別史跡臼杵磨崖仏」。
その磨崖仏(岩壁に彫られた仏像)の質の高さは全国でも群を抜いており、現在61体が国宝指定されています。
何故この地にこれほどの磨崖仏が作られたのか?またそれぞれの石仏群はどういった意味を持つのか?近年の研究で解明されてきたことを徹底解説しながら、国宝臼杵石仏の歩き方を5つのポイントに絞ってご紹介します。

テーマパークの入り口!?「満月寺」

写真:藤谷 愛

「国宝・特別史跡臼杵磨崖仏」(以下、臼杵石仏)に関して近年の研究で明らかになったことの一つが「どういう人たちがこの石仏を作ったのか?」という点。
半身が地面に埋まった珍しい仁王像がある現在の日蓮宗・満月寺(まんがつじ)は昭和25年に創建されたお寺ですが、平安時代末期にはここ一帯の広い範囲に天台宗の満月寺というお寺が存在していました。臼杵石仏は天台宗・満月寺の建立とともに、当時臼杵の領主であった京都の貴族が京都から仏師を呼び寄せ、製作が行われたと考えられています。

写真:藤谷 愛

臼杵石仏の製作が始まった平安末期は、現世において人々が救われることはないという「末法思想」が大流行。多くの人が死後の世界に一縷の望みを託していました。
当時臼杵の有力者たちはその願いを叶えるため、財をつぎ込み臼杵石仏の製作を始めた、というのが起源と考えられています。ではなぜ数多くの寺が存在する臼杵で満月寺が主体となったのか?
それは臼杵石仏群の一つ「古園石仏」(写真建屋内の石仏)が見下ろす場所がポイントとなるのです。

写真:藤谷 愛

前述した天台宗・満月寺の主要なお堂があった場所は写真の奥で東、古園石仏はこの写真を撮影した場所で南、阿弥陀如来を主体に彫りこんだホキ石仏第二群は西にあります。これら3か所に挟まれた眼下に広がる現在の公園広場ですが、発掘調査の結果、江戸時代初めまで周辺にある山々の麓まで広がる広大な池だったことが判明したのです。
池を中央に配し西に阿弥陀如来、東に重要なお堂。
臼杵石仏はただいくつもの古い磨崖仏が並んでいるのではなく、周辺の山や池を取り込み巨大な浄土庭園式寺院を形作った、まさに平安時代の仏教テーマパークだったのです!

誰でも参拝できた「ホキ石仏第二群」

写真:藤谷 愛

では実際に平安末期〜鎌倉時代の参拝者の目線で臼杵石仏を拝観していきましょう。
近年の研究で注目されているのが、4つある石仏群が位置する「高さ」です。順路の最初に登場するのが「ホキ石仏第二群」(以下二群)。石仏群の中では一番低地に配されています。

写真:藤谷 愛

念仏を唱えれば誰しもが救われるとされた浄土教の教えは、末法思想の時代においてまさに地獄で仏。この二群で出迎えてくれるのは、あらゆる人間を極楽へ導いてくれる「九品(くぼん)の弥陀像」です。立ち姿の阿弥陀如来は、苦悩する人々を救済しようとする姿と言われています。当時の多くの人々が死後の世界である来世に希望を持ったことでしょう。

写真:藤谷 愛

九品の弥陀像の奥には、阿弥陀如来坐像を中央にして2体の菩薩立像があります。
座像が静(思惟)、立像が動(救済)と考えると、思惟によって救済を差し伸べるありがたい像だったに違いありません。
またこの場所で注目いただきたいのが、建屋の前に並ぶ大小さまざまな五輪塔。阿弥陀如来へ極楽往生をお願いする契約の証として置かれたものです。他の3つの石仏群には五輪塔が無いことから、二群は一般参拝者も入ることができたエリアと考えられています。

臼杵石仏一のイケメン登場「ホキ石仏第一群」

写真:藤谷 愛

二群と比べ随分と高い位置にある「ホキ石仏第一群」(以下、一群)。その高さから、一群は限られた人のみが参拝できた「奥の院」のような位置づけだったようです。
また写真中央の如来坐像は、専門家が「京都の仏師が25〜50年という歳月をかけて製作した臼杵石仏の中でも一番の出来」と言うほどキリッとした顔立ち。そのイケメンぶりもお見逃しなく。

写真:藤谷 愛

一群の如来像の上には、1170年と1172年に地鎮の為に置かれたと考えられる五輪塔が存在することから、これらの仏像が臼杵石仏の中でも最初に彫られた磨崖仏だった可能性も。

写真:藤谷 愛

一方、一群の中には時代を隔て14世紀に彫られた「十王像」も。
武士の世だった当時、戦いで罪を重ねていた彼らが死後の世界で十王によって裁きを受けるのは確実です。しかしその十王像の中央に配されているのが地蔵菩薩半跏像。現世で信仰を深くすれば地獄に落ちても救ってくれる地蔵菩薩像は、14世紀の武士のニーズで彫られた石仏だったのかもしれません。

地元民が彫った可能性大!「山王山石仏」

写真:藤谷 愛

各石仏群中で一番高い位置にある「山王山石仏」は、その直上にある日吉社との関係で造られ、やはり限られた人のみが参拝できたと考えられています。

写真:藤谷 愛

山王山石仏は、前述したイケメン石仏と比較すると「え?」と思うほどほっこりしたお顔立ち。ゆるキャラのような表情とまあるい形は拝むだけで何だか救われた気になってしまいます。

写真:藤谷 愛

山王山石仏は一群や二群とは異なり、臼杵の石工が彫った可能性が高いと考えられています。
京都から呼ばれた仏師は木に仏像を彫る専門家であったのに対し、地元の石工はこの地の岩石に精通した人ばかり。
彫刻を施した石には石目があり、これは岩石の割れやすい方向を表しています。つまり前述した如来坐像などには顔の部分に亀裂が生じており、石目を読めなかった京都の仏師が彫った可能性が大。一方、山王山石仏の右側の仏像は正面を向く他の2体とは少し異なる向きにあり、実際にひびが入っているのは頭部なのです。
ほっこりした表情と石目。地元石工と京都仏師の作の違いも楽しんでください。

希望と共に光り輝く「古園石仏」

写真:藤谷 愛

最後は臼杵石仏の「顔」といっても過言ではない「古園石仏」。この石仏が4つある石仏群の中心であったことは、その入り口からもうかがえます。
2017年に国宝に追加指定された写真の金剛力士立像は、邪悪なものから仏さまを守護する役割をもっています。当然吽形のその表情は恐ろしく険しいもので、古園石仏を守るために順路の入り口に配されているのです。
ちなみに対をなす像は残念ながら落下し原形をとどめていません。写真中央の岩が破片ですが、落ちてなお国宝!その名残を確かめてみてください。

写真:藤谷 愛

宇宙の真理を現わしている古園石仏の大日如来は、臼杵石仏群における中心でした。前述したように、特に聖なる空間として限られた高僧のみが池を渡り拝することができたと考えられています。
では一般庶民はどうだったのか?

写真:藤谷 愛

写真は満月寺から眺めた石仏群。右の建屋が二群、左の建屋が古園石仏です。
一般庶民は昔は池だった広場の向こう側に渡ることができなかったかもしれません。
池の対岸にある臼杵石仏群はまさに「あの世」。
臼杵の人々は現世をイメージする満月寺側から石仏群のある対岸を仰ぎ見て、「仏の世界とはこんなところなのか」と想像していたに違いありません。まさに、仏界を体感できるテーマパークだったのでしょう。
近年の研究で新たな見方が楽しめる「国宝・特別史跡臼杵磨崖仏」。平安〜鎌倉時代の人々がどのような思いを仏教に抱いてきたかが理解でき、現在でも仏界のテーマパークといえる歴史遺産です。ぜひ次の大分観光で臼杵石仏巡りをお楽しみください。

国宝・特別史跡臼杵磨崖仏の基本情報

住所:大分県臼杵市大字深田804-1
電話番号:0972-65-3300 (電話受付時間 8:30〜17:00 年中無休)
アクセス:JR上臼杵駅からタクシーで約10分/JR臼杵駅からタクシーで約20分
2021年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

■関連MEMO
国宝臼杵石仏(外部リンク)
https://sekibutsu.com/
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藤谷 愛

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提供元:トラベルjp 旅行ガイド

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