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明治の実業家の精神を感じ取れ!高知「岩崎弥太郎生家」

2025-02-28

高知県安芸市の中心部から約3キロメートル離れた郊外に、明治時代の実業家である岩崎弥太郎の生家が保存されています。主屋をはじめ蔵や番屋など合計7棟の建物が国の有形文化財に登録され、さらに岩崎弥太郎が十代のときに作庭したとされる庭園も残されているので、ぜひ実際に足を運んでみてください。

近代日本経済の発展を支えた岩崎弥太郎の生家

写真:島塚 渓

三菱財閥の創設者として知られる岩崎弥太郎は、天保5年(1835年)に土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)で誕生しました。若くして土佐藩の吉田東洋や後藤象二郎に見いだされ、貿易や会計の担当者として手腕を発揮します。明治維新後は九十九商会(つくもしょうかい)を立ち上げ、それまで土佐藩が請け負っていた事業を受け継ぎます。
さらに、明治10年(1877年)の西南戦争の際には、政府の求めに応じて軍需輸送を引き受けたことで事業を飛躍的に発展させました。

写真:島塚 渓

岩崎弥太郎は明治18年(1885年)に50歳で死去しますが、弟の岩崎弥之助が後を継ぎ三菱財閥の2代目総帥となり、その後も3代目総帥には長男の岩崎久弥、4代目総帥には甥の岩崎小弥太が就任し、岩崎家は戦前経済界の名家としての地位を築きます。昭和60年に岩崎弥太郎の生誕150年を記念し、台座を含め4.4メートルの巨大な像が建てられ、平成27年に岩崎弥太郎生家前に移設されています。

岩崎弥太郎生家は内部も見学可能

写真:島塚 渓

岩崎弥太郎生家は、弥太郎の曽祖父の代に郷士(ごうし)の身分を売ったことで得た資金をもとに、寛政7年(1795年)ごろに現在の場所に移築されました。建坪約30坪の平屋が生活の中心で、茶の間9帖、表の間8帖、その脇に4帖半2間の部屋が備え付けられています。もともと屋根は藁葺きだったようですが、昭和55年(1980年)の補修で茅葺きに変更され、以降は定期的に整備が行われています。

写真:島塚 渓

岩崎弥太郎生家の前庭には、大きな石を日本列島に見立てて配置した石組があります。これは十代の弥太郎が、日本列島を股にかけるような大きな仕事がしたいという夢を託して作ったものだとされています。生涯を通して造園には関心を持ち続けており、事業に成功した晩年も東京都江東区にある清澄庭園の改修に力を注いでいます。

三菱のシンボルマークが刻印された蔵も見逃せない

写真:島塚 渓

岩崎弥太郎生家の裏手には、明治以降に建てられた2棟の蔵があります。いずれも岩崎弥太郎が亡くなった後に建てられた蔵で、東の蔵にはスリーダイヤと呼ばれる三菱のマークがデザインされています。このスリーダイヤは、岩崎家の家紋である「三階菱(さんがいびし)」と土佐藩主の山内家の家紋である「三ツ柏(みつがしわ)」を原型にして生み出されました。

写真:島塚 渓

土佐藩主の山内家の家紋である「三ツ柏」は三方向に広がった柏の葉をデザインしたもので、岩崎家の家紋である「三階菱」は、大中小の3つの菱型が積み重なったデザインとなっています。この2つをを組み合わせたデザインが九十九商会の船旗号となり、さらに洗練され現在の三菱のマークになったとされています。蔵の鬼瓦の中心をよく見ると、岩崎家の家紋である「三階菱」が刻印されていることが分かります。

岩崎弥太郎生家の基本情報

住所:高知県安芸市井ノ口甲1696
営業時間:9:00〜16:30
定休日:月曜日
料金:無料
アクセス:安芸駅から車で約10分
2025年2月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

■関連MEMO
一般社団法人安芸市観光協会公式ウェブサイト 岩崎弥太郎生家ページ(外部リンク)
https://www.akikanko.or.jp/kanko/yatarouseika.html

【トラベルjp・ナビゲーター】
島塚 渓

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提供元:トラベルjp 旅行ガイド

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