2023-11-02
室町時代中期、現在の大阪市平野区を舞台にして「正覚寺合戦」という戦いが展開されたこと、ご存知でしょうか。正覚寺合戦は室町幕府の最高権力者である足利将軍が家臣にクーデターを起こされ、失脚するにいたった「明応の政変」を引き金にしており、近年では戦国乱世の幕開けを告げるターニングポイントとなった合戦と考えられています。今回はその意味でもきわめて重要な「正覚寺合戦」の舞台をめぐる旅に出てみましょう。
「正覚寺合戦(しょうかくじかっせん)」とは、1493年(明応2)、現在の大阪市平野区で起こった戦闘のこと。当時、室町幕府第10代将軍・足利義材は幕政に大きな影響力を持つ畠山政長とともに河内国に出陣し、政長と敵対関係にある畠山基家(義豊)を攻め立てていました。ところが、義材・政長不在の都で、将軍を補佐するべき立場にある管領・細川政元が義材の将軍廃嫡、香厳院清晃(後の足利義澄)の新将軍擁立、政長討伐、基家赦免を発令。政長は自刃、義材は失脚し、幽閉されることとなりました。いわゆる「明応の政変」です。
正覚寺合戦は、そのとき、政元の命によって派遣されたクーデター軍と義材・政長の旧幕府軍とのあいだで繰り広げられた戦闘を指しています。
写真は合戦に敗れ、自刃した政長の墓所。合戦の舞台となった地には、いまでも政長の墓所がひっそり残されているのです。
写真の墓所の一番奥まった玉垣のなかに残された石塔類。このなかに政長の墓石があると思われますが、複数の墓石、石仏類が乱雑に置かれているため、具体的にどれが政長のものであるか、判然としません。
クーデターによって逆賊になった身の上とはいえ、将軍を補佐する管領として幕政に大きな影響力を持っていた政長の墓所としては、あまりにも寂しいものです。
墓所には「尾張守畠山政長之碑」と刻まれた石碑もあります。畠山氏の子孫に当たる方が建立したものと思われますが、その側面には、1556年(弘治2)、畠山次郎左衛門長勝という人物が山田姓に名をあらため、その子孫が讃岐国に居を移したことが記されています。
江戸幕府の成立以降、幕府における儀式などを司る「高家」の一つとして存続した畠山氏も存在しますが、この石碑からは、明応の政変および正覚寺合戦以降、畠山氏は将軍を支える管領としての権勢を次第に失い、衰微していったことがうかがえます。
<畠山政長の墓の基本情報>
住所:大阪市平野区加美正覚寺2-6-37
アクセス:JR平野駅より徒歩約10分
正覚寺合戦の折、政長らが滞陣していた城郭は「正覚寺城」と呼ばれています。旭神社が当地に遷座したのは、江戸時代のこと。それ以前、当地には正覚寺と呼ばれる大寺があり、政長たちはそこを城塞化して敵対勢力と対峙していたのでした。「正覚寺合戦」の呼称は、政長らが滞陣した正覚寺(正覚寺城)の名に由来します。
正覚寺城は、現在の旭神社の境内付近にあったとされています。当時の痕跡を示すものとして、境内には、正覚寺城の名を刻んだ石碑が建立されています。
ご覧のような礎石も見られます。正覚寺の建物を支えていた遺構ではないでしょうか。
<旭神社(正覚寺城跡)の基本情報>
住所:大阪市平野区加美正覚寺1-17-30
アクセス:JR平野駅より徒歩約5分
825年(天長2)、弘法大師・空海によって開創されたとされるかつての正覚寺は、柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊の六坊から成り、付近一帯に広大な寺域を有していました。地元民の信仰も篤く、かの楠木正成もしばしば参詣したと伝えられていますが、正覚寺合戦により、その大伽藍は三日三晩にわたって燃え続け、灰尽と化しました。
正覚寺を構成していた六坊のうち、唯一残ったのが、こちらの東之坊です。
東之坊の門前には「正覚廃寺の由来」と刻まれた石碑があり、正覚寺および正覚寺合戦についての由緒が記されています。こちらを参考にして正覚寺合戦に思いを馳せてみるのも一計でしょう。
<東之坊の基本情報>
住所:大阪市平野区加美正覚寺2-8-5
アクセス:JR平野駅より徒歩約10分
東之坊の南数百メートルには、正覚寺の寺号を持つ日蓮宗の寺院もあります。こちらは、1937年(昭和12)、太田上人が日昭上人の夢を見て寺院の再建を決意し、1962年(昭和37)に完成させたお寺。かつての正覚寺とは直接の関わりはありませんが、合戦で討ち死にした将兵の菩提を弔った無縁塔も建立されており、正覚寺の歴史を現代に伝える寺院といえます。
このようにかつて隆盛を誇った正覚寺の痕跡を確認することは困難です。しかし、当地の住所が「加美正覚寺」であることに留意しましょう。正覚寺の大半は政長らとともに滅びましたが、地名としては現在も残されており、往時をしのぶことができます。
<正覚寺の基本情報>
住所:大阪市平野区加美正覚寺2-9-26
アクセス:JR平野駅より徒歩約8分
正覚寺合戦で政長を自刃に追い込み、義材を将軍の座から引き摺りおろした細川政元は、その後、幕政を牛耳ります。しかし、その後継をめぐり、我が子に殺害されたのを契機として、今度は細川家の内紛が勃発。その混乱に乗じて、義材(義植と改名)が西国の雄・大内義興に擁立されて都へ帰還し、将軍の座に返り咲きます。しかし、義興が領国へ戻ると、後ろ盾を失った義材は細川高国によってふたたび畿内から追放されます。
このように将軍の権威は失墜し、畿内もまた下剋上の様相を呈していきますが、近年の研究では、明応の政変は畿内における戦国乱世の幕開けを告げる事変であったと考えられており、その意味で正覚寺合戦は歴史のターニングポイントというべき重要な合戦であるといえます。
正覚寺合戦の舞台を実際にめぐり、時代の大きな転換点に思いを馳せてください。
2023年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
■関連MEMO
畠山政長の墓―大阪市平野区ホームページ(外部リンク)
https://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210321.html
【トラベルjp・ナビゲーター】
乾口 達司
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