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直線に居並ぶ王陵墳墓!?奈良県明日香村の「聖なるライン」

2024-08-23

奈良県明日香村といえば、6世紀から7世紀後期にかけて、わが国の都が置かれていた地域。域内には数々の史跡が点在し、そのなかには天皇・皇族クラスの陵墓も存在します。実は彼らの墳墓の一部は南北にほぼ一直線に居並んで配置されているのです。「聖なるライン」とも呼ばれるその配置は果たして意図的に計画されたものなのでしょうか。それともただの偶然か?今回は「聖なるライン」に沿って点在する古墳をご紹介しましょう。

「聖なるライン」の出発点?「天武・持統天皇合葬陵」

写真:乾口 達司

「聖なるライン」とは、1970年代に京都大学の考古学者・岸俊男が提唱した学説。藤原京の朱雀門から南に一直線にのびるラインに居並ぶようにして王陵墳墓が点在していることから、岸はそこに王陵墳墓を築造した為政者の意図的な配置を読み取りました。以後、それは一般に「聖なるライン」と呼ばれ、飛鳥時代末期の古墳研究における有力な学説となっています。
その出発点となるのが、こちらの「天武・持統天皇合葬陵(てんむ・じとうてんのうがっそうりょう)」。その名の通り、天武天皇とその皇后であり、天武天皇の崩御後、夫の後を継いで皇位を継いだ持統天皇を埋葬した陵墓です。

写真:乾口 達司

築造当時からはかなり形が崩れてはいますが、形状は五段築成の八角形墳。中世に受けた盗掘の被害により、逆に切石積みの石室から成る埋葬施設の様子が記録されています。
それによると、石室内には夾紵棺と金銅製骨蔵器が安置されており、夾紵棺には天武天皇の遺体、金銅製骨蔵器には、崩御後、火葬された持統天皇の遺骨がそれぞれおさめられていました。
天皇陵をはじめとする陵墓の大半は江戸時代後期から明治時代にかけて比定されたものであり、実際の被葬者と合致していないケースが圧倒的に多いのが実状ですが、天武・持統天皇合葬陵については、その史料性からも、天武天皇と持統天皇を埋葬した疑いのない陵墓と見なされています。
<天武・持統天皇合葬陵の基本情報>
住所:奈良県高市郡明日香村野口45
アクセス:近鉄吉野線「飛鳥駅」より徒歩約15分

世紀の大発見!壁画古墳として有名な「高松塚古墳」

写真:乾口 達司

天武・持統天皇合葬陵の南方、国営飛鳥歴史公園の園内にあるのが、こちらの「高松塚古墳(たかまつづかこふん)」。7世紀末期から8世紀初頭にかけての時期に築造されたと推定されている「終末期古墳」の一つであり、1972年の発掘調査により、石室内部にあざやかに彩色された壁画があることで一躍有名になった古墳です。
ご覧のように、高松塚古墳は二段式の円墳であり、下段の直径は23メートル、上段の直径は18メートルにおよびます。その名称は古くより墳頂付近に大きな松が生えていたことに由来します。被葬者は特定されていませんが、天武天皇の皇子である高市皇子などが候補として挙げられています。
古代に築かれた古墳にしては綺麗に整備されていると思われる方もいらっしゃるでしょうが、これは2000年代からはじまった整備事業により、築造当時の姿に復原されたものです。

写真:乾口 達司

壁画および壁画の描かれた石室は2007年に取り出され、保存修理がおこなわれた上、定期的に一般公開されていますが、高松塚古墳に隣接する「高松塚壁画館」では、実物大の壁画の精密な模写が展示されており、常時公開されています。あわせて入館しましょう。
<高松塚古墳の基本情報>
住所:奈良県高市郡明日香村平田444
アクセス:近鉄吉野線「飛鳥駅」より徒歩約15分

どちらが真の文武天皇陵?「文武天皇陵」と「中尾山古墳」

写真:乾口 達司

高松塚古墳の南東に目をやると、こんもりとした森のようなものがご覧になれます。こちらは「文武天皇陵(もんむてんのうりょう)」。その名のとおり、持統天皇の孫であり、持統天皇の後を継いで天皇となった文武天皇の陵墓です。
文武天皇は25歳で崩御。「安古(あこ)」の地に葬られましたが、明治時代に入り、当時の宮内省は当地の栗原塚穴古墳を文武天皇の陵墓に比定。現在の文武天皇陵となりました。
<文武天皇陵の基本情報>
住所:奈良県高市郡明日香村平田410-1
アクセス:近鉄吉野線「飛鳥駅」より徒歩約20分

写真:乾口 達司

しかし、考古学や歴史学の研究が進み、近年では、現在の文武天皇陵とは別の古墳こそ真の文武天皇の陵墓ではないかという学説が提示されています。その真の陵墓と推定されているのが、こちらの「中尾山古墳(なかおやまこふん)」です。
高松塚古墳の北に位置する中尾山古墳は、8世紀初頭に築かれたと推定される「終末期古墳」の一つ。形状は三段築成の八角形墳。先ほどご紹介した「天武・持統天皇合葬陵」が八角形墳であったように、7世紀後半以降、八角形墳は天皇や皇族の陵墓にだけ該当するものであり、その点も中尾山古墳が文武天皇の真の陵墓である根拠となっています。
中尾山古墳は宮内庁管理の陵墓には指定されていないため、発掘調査がおこなわれています。調査の結果、埋葬施設は内側に水銀朱を塗布した横口式石槨であることが判明しています。残念ながら、副葬品は失われていましたが、内部には火葬後の遺骨をおさめた蔵骨器が置かれていたと考えられています。

写真:乾口 達司

現在は発掘調査も終了し、一部はシートで覆われていますが、文武天皇陵とは違い、すぐ近くで墳丘を見てまわることができるのも嬉しいですね。
あなたはどちらが文武天皇の真の陵墓であると思いますか?
<中尾山古墳の基本情報>
住所:奈良県高市郡明日香村
アクセス:近鉄吉野線「飛鳥駅」より徒歩約15分

壁画古墳の双璧!「キトラ古墳」とキトラ古墳壁画体験館「四神の館」

写真:乾口 達司

石室内から精密な壁画が発見された古墳といえば、高松塚古墳と双璧を成す「キトラ古墳」も忘れてはなりません。キトラ古墳はこれまでにご紹介した古墳からは南に離れてはいますが、実はキトラ古墳も「聖なるライン」に沿って築造されていると考えられているのです。
キトラ古墳は二段築成の円墳。下段の直径は13.8メートル、上段の直径は9.4メートルで、高松塚古墳に先行して築造されたと考えられています。被葬者は不明。天武天皇の皇子有力な高官の可能性が指摘されています。
高松塚古墳と同様、石室内の壁画を剥ぎ取り、保存整備をはかる際に築造当時の姿に復原されています。

写真:乾口 達司

剥ぎ取られた壁画は、キトラ古墳ニ隣接する「キトラ古墳壁画体験館『四神の館』」で定期的に一般公開されています。

写真:乾口 達司

「キトラ古墳壁画体験館『四神の館』」では、壁画の公開がおこなわれるほか、キトラ古墳に関するさまざまな紹介がなされています。
館内には原寸大の石室の模型もあり、実際に内部の様子を自分の目で見ることもできますよ。
<キトラ古墳の基本情報>
住所:奈良県高市郡明日香村安武山243
アクセス:近鉄吉野線「飛鳥駅」より徒歩約20分

「聖なるライン」に居並ぶ古墳めぐりを楽しもう!

「聖なるライン」に沿って築造された古墳の数々、いかがでしたか?もちろん、「聖なるライン」という学説はあくまでも仮説の段階にあるものですが、藤原京が成立・存続している時期に、同じラインに沿って古墳が築かれていることを踏まえると、為政者の何らかの意図を反映した配置であると考えるのも自然ではないでしょうか。「聖なるライン」は果たして意図的なものであったか、それとも偶然の産物か。実際に当地をめぐり、その謎に挑んでみてください。
2024年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

■関連MEMO
天武天皇 檜隈大内陵―宮内庁ホームページ(外部リンク)
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/040/index.html
高松塚古墳―国営飛鳥歴史公園(外部リンク)
https://www.asuka-park.jp/area/takamatsuzuka/tumulus/
文武天皇 檜隈安古岡上陵―宮内庁ホームページ(外部リンク)
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/042/index.html
中尾山古墳―明日香村公式ホームページ(外部リンク)
https://www.asukamura.jp/gyosei_bunkazai_shitei_1_nakao.html
キトラ古墳―国営飛鳥歴史公園(外部リンク)
https://www.asuka-park.jp/area/kitora/tumulus/

【トラベルjp・ナビゲーター】
乾口 達司

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提供元:トラベルjp 旅行ガイド

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