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厳島神社だけではない!広島・宮島は「厳島の戦い」ゆかりの地

2024-09-06

「安芸の宮島(あきのみやじま)」とも呼ばれる「厳島(いつくしま)」は、中国地方有数の景勝地として、世界的に知られています。その象徴として挙げられるのが「厳島神社」です。しかし、そのすぐ近くでかつて大規模な合戦がおこなわれたこと、ご存知ですか?「厳島の戦い」です。安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が中国地方の覇者となるきっかけとなった厳島の戦い。今回はその戦跡地をめぐる旅に出掛けてみましょう。

厳島の戦いゆかりの「要害山」

写真:乾口 達司

「厳島合戦」とも呼ばれる「厳島の戦い」は、1555年(弘治1)、安芸国の国人・毛利元就と周防・長門の守護大名・大内義隆を滅ぼし、大内家の実権を握っていた陶晴賢(隆房)とのあいだで繰り広げられた合戦のこと。
当時の下剋上の流れのなかにあって、1551年(天文20)、西国随一の権勢を誇っていた守護大名・大内義隆が、家臣の陶晴賢により、自刃。大内領は晴賢の手に落ちました。その混乱に乗じて、それまで大内家に臣従していた安芸国の毛利元就が自立。安芸一国の平定を成し遂げます。しかし、その結果、晴賢との対立は決定的なものとなり、両勢力は各地で小競り合いをはじめます。中国地方の覇権を握るべく、晴賢と雌雄を決する決意をかためた元就は、大内家に対する調略を進める一方、厳島にあった「宮尾城」の改修に着手しました。厳島の戦いはここからはじまります。
フェリー乗り場のすぐ目の前にある写真の石段を登ったところこそ、その宮尾城の跡地です。

写真:乾口 達司

石段を登ること、数分。宮尾城は標高30メートル程度の丘陵上に築かれていました。
現在、その地は「要害山」と呼ばれていますが、その名が宮尾城に由来するものであることは、いうまでもありません。

写真:乾口 達司

宮尾城は平野部にある丘陵上に築かれた連郭式平山城。現在、東屋の設けられている主郭を中心に、その一段低いところには、主郭を防衛するための複数の曲輪(台地上のスペース)も設けられていました。

堀切も!決戦の地として整備された宮尾城

写真:乾口 達司

主郭から東に向かうと、厳島神社の摂社である今伊勢神社が鎮座しています。その鎮座する地も宮尾城の城内にふくまれています。
その東側には、ご覧のような「堀切(ほりきり)」も見られます。堀切とは、峰を垂直に断ち切った防御施設の一種。尾根伝いに攻めてくる外敵が、直接、主郭に攻め入ることを阻止するために設けられたものであり、ここからも宮尾城が陶勢の侵攻に対抗する拠点としてあったことがわかります。

写真:乾口 達司

写真は要害山を案内する道標。「一文字三つ星」という毛利家の家紋が記されているのが、おわかりいただけるでしょう。
さすがは毛利勢の拠点・宮尾城ですね。

写真:乾口 達司

陶勢は厳島の奪還を目指し、渡海。宮尾城の攻略に着手します。
写真は宮尾城跡から厳島神社方面を撮影した一枚ですが、晴賢は画面中央に見える五重塔のある丘陵部に本陣を置きました。
<宮山城跡(要害山)の基本情報>
住所:広島県廿日市市宮島町浜之町
アクセス:宮島フェリー乗り場よりすぐ

晴賢が本陣を置いた「塔の岡」

写真:乾口 達司

晴賢が本陣を置いた丘陵部は、写真の右手、小高くなった部分の頂上付近にありました。フェリー乗り場から厳島神社へ向かう参道脇にあるため、お見逃しなく。

写真:乾口 達司

丘陵はかつて「宮崎」と呼ばれていましたが、後年、豊臣秀吉の命によって建立された「千畳閣」や1407年(応永14)に建立された五重塔があることにちなみ、五重塔の建立後は「塔の岡」と呼ばれています。
現在、その地には「塔の岡」について解説した案内板も設置されています。もちろん、案内板には、ここに晴賢が本陣を置いたことも記されていますよ。

写真:乾口 達司

写真は晴賢が本陣を置いた塔の岡から宮尾城方面を撮影した一枚ですが、塔の岡と宮尾城との距離がわずか数百メートルしかないことに、お気づきになるでしょう。
そのわずか数百メートルのあいだで、両勢の激戦が繰り広げられたのでした。
<塔の岡の基本情報>
住所:広島県廿日市市宮島町1-1
アクセス:宮島フェリー乗り場より徒歩約10分

合戦の地に鎮座する厳島神社

写真:乾口 達司

晴賢が宮尾城の攻略に手間取っているうちに、毛利勢は三方から厳島に上陸。陶勢の背後をつくようにして塔の岡周辺へ攻め入りました。毛利勢の奇襲により、陶勢は壊滅的な打撃を受け、その場を逃れた晴賢も厳島から脱出する手立てを見出せずに遂には自害しました。
写真は厳島神社の象徴というべき大鳥居ですが、毛利勢はこのあたりにも上陸し、陶勢を背後から攻め立てました。

写真:乾口 達司

写真は厳島神社の社殿越しに見える塔の岡。この構図からもわかるように、陶勢の本陣が置かれた塔の岡は、厳島神社とは目と鼻の先にあります。したがって、合戦時は厳島神社も争乱に巻き込まれますが、合戦の終了後、元就は海水で社殿を清め、死者の冥福を祈りました。
現在、世界遺産ともなっている厳島神社には国内外から大勢の観光客が参拝していますが、その目と鼻の先でこのような激闘が繰り広げられたこと、ご存知でしたか?
<厳島神社の基本情報>
住所:広島県廿日市市宮島町1-1
アクセス:宮島フェリー乗り場より徒歩約10分

厳島の戦いの地をめぐろう!

厳島の合戦をめぐる旅、いかがでしたか?晴賢に勝利した元就は余勢をかって周防・長門の大内領に侵攻。厳島の戦いから2年後には大内領を併呑し、元就は中国地方有数の大大名となりました。しかし、その後は石見銀山の覇権をめぐって出雲の尼子氏と、博多の権益をめぐって豊後の大友氏とそれぞれ対立。両勢力との長い戦いが繰り広げられていきますが、その発端が、ここ、厳島でおこなわれた晴賢との厳島の戦いなのでした。当時の合戦の様子を思い浮かべながら、宮尾城や塔の岡を訪れてみてはいかがでしょうか。
2024年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

■関連MEMO
厳島合戦―宮島観光協会(外部リンク)
https://www.miyajima.or.jp/history/gassen.html

【トラベルjp・ナビゲーター】
乾口 達司

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提供元:トラベルjp 旅行ガイド

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