2025-04-02
奈良県斑鳩町の「中宮寺」といえば、日本最古の刺繍「天寿国繡帳」や国宝・木造菩薩半跏像を所蔵する古刹として、足を運ばれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。現在、中宮寺は法隆寺の境内の一角にありますが、かつてはその東方に広大な伽藍を有していました。現在、その一部は史跡公園として整備され、往時をしのぶことができます。今回は中宮寺創建の地にある「中宮寺跡史跡公園」をご紹介しましょう。
中宮寺は奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある寺院。聖徳太子が母・穴穂部間人皇后の住居を寺院としたのが、中宮寺のはじまりであるといわれています。
「法隆寺北」の町名からもわかるように、現在、中宮寺は法隆寺の境内の一角にあり、こじんまりとした寺院として存在していますが、これは16世紀になってからのこと。かつてはその東方に広大な伽藍を有していました。その創建の地は、近年、「中宮寺跡史跡公園」の名のもとに復元整備されています。
中宮寺創建の地には、古くより土壇が残されており、寺院の存在が考えられていました。1963年(昭和38)よりはじまった発掘調査により、塔と金堂の遺構が検出され、塔と金堂とが南北に並ぶ伽藍配置であったことが判明しています。これは同じく聖徳太子が創建した大阪府の四天王寺と同じ伽藍配置であることから、学術上、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。
史跡公園となった現在も、塔と金堂の跡はご覧のように復元整備されています。
写真は塔跡。基壇の上には、塔を下から支えていた礎石が復元遺構として配置されています。
塔の中心部を下から上へと貫く心柱を支えていた心礎は、基壇の上面から約3.2メートルの地下に置かれており、横幅約1.75メートル、縦幅約1.35メートル、厚さ約0.55メートルの規模です。
したがって、心礎自体を拝見することはできませんが、心礎を復元したものが塔跡の脇に置かれています。
写真の白い巨石がその復元された心礎。このような大きな心礎が塔の心柱を支えていたのです。
塔跡の北側にあるのは、金堂跡。ご覧のように、塔跡と同様、復元された礎石が居並んでいます。それによると、金堂は正面13.5メートル、側面10.8メートルの規模で、正面に6本、側面に5本の柱から成る瓦葺の仏堂であったことが判明しています。
創建当初の金堂は凝灰岩の切石を積み重ねで構築した切石積基壇の上に建てられていましたが、平安時代中期に当たる10世紀に入って焼失。その後、金堂の屋根瓦を再利用した瓦積基壇が構築されたと考えられています。
写真は塔基壇の南方付近を撮影したもの。このあたりに南門があったと推定されています。
こちらは反対に北門のあったと推定されているところです。
園内東側の散策路には、ご覧のように、南北に連なる形で丸い石が点々と埋められています。これ、いったい、何だと思いますか?実はこの石は発掘調査で見つかった柱の穴の遺構を示したもの。この発見により、中宮寺の東の端が確定したのです。
ちなみに、西の端からは築地塀の遺構が発見されており、それにより、中宮寺の東西の幅が約126メートルであったことが判明しています。
塔跡から南西約40メートルの地点にあるこちらの丸い石は、儀式のときなどに立てられた幡の竿を両側から支えていた支柱の遺構を示しています。
中宮寺跡史跡公園のもう一つの魅力は、斑鳩町に点在する「斑鳩三塔」(法隆寺五重塔・法輪寺三重塔・法起寺三重塔)を同時に見渡せること。
写真は法輪寺の三重塔。1944年(昭和19)、落雷によって焼失した後、作家の幸田文たちの働きかけで再建された昭和の塔です。
ビニールハウスの向こうに顔をのぞかせているのは、法起寺の三重塔。706年(慶運3)に創建された、三重塔としては日本最古の仏塔であり、国宝に指定されています。
三塔を同時に見ることができる場所は、斑鳩町にあっても、限られています。中宮寺跡史跡公園からぜひご覧ください。
中宮寺跡史跡公園がいかに中宮寺の歴史を伝える史跡公園であるか、おわかりいただけたでしょうか。斑鳩町の古刹といえば、法隆寺を連想する方も多いでしょうが、法隆寺に匹敵する長い歴史を誇る中宮寺創建の地をぜひめぐってみてください。
住所:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺東2丁目7
アクセス:JR法隆寺駅より徒歩約20分
2025年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
■関連MEMO
斑鳩ナビ観る―史跡中宮寺跡(外部リンク)
https://horyuji-ikaruga-nara.or.jp/navi/details.php?pid=1458731999
【トラベルjp・ナビゲーター】
乾口 達司
関連記事
オリコンタイアップ特集
オリコンタイアップ特集
オリコンタイアップ特集
オリコン顧客満足度ランキング
CS動画配信サービス20選
プレゼント特集