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「私はもう終わった」宮崎宣子 番組降板、テレビ局退社、フリー転身を経て起業、大学院入学…さまざまな岐路を乗り越え感じる想い

2022-05-14 eltha

 フリーアナウンサーで実業家の宮崎宣子がこの春、早稲田大学大学院に入学したことが話題に。日本テレビ局アナ時代には『ラジかるッ』『ザ!世界仰天ニュース』など多数の看板番組を担当。さらに2012年には勤続10年で“寿退社”とともにフリー転身と、傍目には順風満帆なライフステージを歩んできた宮崎だが、その実は心も体も満身創痍だったと振り返る。20年ぶりの学生生活をスタートしたばかりの宮崎に局アナ時代のこと、自身のキャリアを振り返って今、思うことを聞いた。

「ぜんぜん大丈夫」だったはずが番組降板、休職に

20年ぶりに母校で学生になった宮崎宣子(Instagramより)

20年ぶりに母校で学生になった宮崎宣子(Instagramより)

──大学院ではどのようなことを学ばれているのですか?

宮崎宣子経営管理研究科でMBA取得を目指しています。オーガニックハーブのブランドを起業して3年。自信を持ってお届けできる商品ラインナップも揃い、ここから会社を育てていこうとしたときに、自分には経営の知識があまりにも足りないことに気付かされたんです。

──オーガニックハーブに興味を持たれたきっかけは?

宮崎宣子局アナ時代に自律神経を崩してしまったんです。30代に入って早朝のニュース番組を担当したのですが、夜中12時起きの1時出社という昼夜逆転の生活に体が悲鳴を上げてしまったんですね。最初は体のだるさ、やがて不安が取れなくなり、最終的には味覚もなくなり──。

──同番組は半年で降板。その後、半年間の休職に入られます。

宮崎宣子20代の頃はもっと忙しかったですし、気力的には「ぜんぜん大丈夫」と思っていました。だけど睡眠薬と安定剤がないと仕事ができない状態になり、いよいよドクターストップがかかったんです。当時は、(休職したことによって)アナウンサーとしての信用を失ったんじゃないか、一緒に仕事したいと思われなくなったのでは?と思い、「私はもう終わった」と思ってしまいました。そんな時、治療の一部として主治医に薬の代わりに勧められたのがハーブティーでした。最初は「美意識高い系女子が飲むものでしょ」と半信半疑だったのですが(笑)、規則正しい生活にハーブティを取り入れることで心も体も楽になり、そこからハーブの勉強を始めたんです。

「日本テレビのアナウンサーとして40代、50代の自分の姿が想像できないことに気付いた」

──日テレ時代には看板アナウンサーとして活躍された宮崎さんですが、どのようなタイミングで退職を決められたのですか?

宮崎宣子先ほど言った体のこともそうなのですが、一番大きかったのは自分で自分の“ピーク”を感じてしまったことでした。私は同期入社の中でも落ちこぼれで、宮崎弁がなかなか抜けなかったこともあってデビューも半年以上遅かったですし、4年目までレギュラー番組も持たせてもらえなかったんです。だから初めての担当番組となった『ラジかるッ』(2006-2009年)が決まったときは本当にうれしかったんです。

──『ラジかるッ』をきっかけに親しみやすいキャラクターがお茶の間に浸透。一時期はテレビで見ない日はないほどでした。

宮崎宣子スタートが出遅れた分、仕事をいただけることがありがたくて寝る間も惜しいくらいでした。『ラジかるッ』の放送期間中には日テレの特番もたくさん担当させて頂きました。ドラマまで経験させていただいて、がむしゃらに駆け抜けた『ラジかるッ』が終了したのが29歳のとき。一息ついた瞬間に、日本テレビのアナウンサーとして40代、50代の自分の姿が想像できないことに気付いたんです。

離婚、起業を経て春から大学院生に「人生は思うようにいかない。だけど、諦めない」

「何かを始めるのに年齢も環境もまったく関係ないんだと改めて気付かされていますね」(Instagramより)

「何かを始めるのに年齢も環境もまったく関係ないんだと改めて気付かされていますね」(Instagramより)

──"女子アナ30歳定年説"とよく聞きますが、局アナが第一線で活躍できる期間は限られているのでしょうか?

宮崎宣子何をもって第一線と捉えるかにもよりますが、私は「これまでのように、必死に仕事に取り組むことはできないのかもしれない」と思ってしまったんです。後輩が入社してくる中、会社としては彼ら彼女らにも経験を積ませなければいけない。一方で充実した経験をさせてもらった私には、この先は仕事をこなすことが求められる。挑戦することなく、ただただ業務を消化していくことしかできなくなるのではと思い、そんな自分が私には耐えられなかったんです。

──『ラジかるッ』の終了後は顎関節症を患うなど、体調不良に悩まされました。そして32歳で結婚、フリー転身をされます。

宮崎宣子ただ私の至らなさのせいで結婚生活は3年続きませんでした。当時は家庭を基盤にゆっくりしたペースで仕事をしていこうと考えていたんですが、やはり私は社会に属していたいいたいタイプだったんですね。起業は離婚も1つのきっかけでした。これからは自分の経験をもとに一生をかけて誰かの役に立つ仕事をしたいと考え、かつて自分が救われたオーガニックハーブのブランド・EMARAを設立したんです。

──そして42歳になったこの春に大学院に。同級生は年下ばかりですか?

宮崎宣子ビジネススクールですので同世代がほとんどで、50代の方も少なくありません。特に女性がエネルギッシュで、妊娠中の方、お子さんが3人いらっしゃる方、産休から復学された方などなど尊敬できる方ばかり。これから英語をマスターしようとされている方もいますし、何かを始めるのに年齢も環境もまったく関係ないんだと改めて気付かされていますね。

──テレビ局の退社、フリー転身、結婚、離婚、そして再婚と数々の人生の岐路を経験してきた今、それらの選択は正解だったと思いますか?

宮崎宣子新しい環境に飛び込むのは勇気がいることで、その一歩を踏み出せないときにはいろんな言い訳が頭の中を駆け巡るんですよね。だけどそれが自分の人生を諦めさせてしまうことにもなる。そんなときは「エイヤッ!」と弾みをつけて。やってみてダメだったらいつだって立ち止まったり軌道修正したりすればいいわけで、人生の選択を正解にするのは自分次第だと思っています。

 人生は思うようにいかない。だけど、諦めないことが大事なんだと噛み締めています。
(取材・文/児玉澄子)
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